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365日のJournal

  

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July, 2022

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バラ色の湖

 

 小学生のころは、夕方まで校庭で野球をして遊び、西の空が赤みを帯びてくると、「それっ!」と自転車に乗って湖へ走りました。学校から3kmくらいはあったと思います。湖の東側には、300mの堤防があって、そこに座れば正面に湖と、さらに奥には奥多摩の山が見えました。そこに夕日が沈んでいきます。

 ワカサギの群れがさざ波のように走り、カワウの止まり木が、遠くの島で白く光っています。自転車くらいの大きな魚の影が、岸辺を泳いでいったことがありました。誰かが「あれは草魚だ」と言っていた気がします。遠くの山が、雲と見分けがつかなくなり、暗くなるまで見ていたこともあります。

 あのころ好きだった女の子を、なぜ好きになったかといえば、誰かにいじめられていたという話を聞いたからです。その人が本当はどんな人か、自分と相性がいいのかどうか、大切なこととは関係なく、ただどんどん好きになっていきました。

 女の子だけでなく、開発で失われていく身近な風景とか、そこに棲んでいた生き物たちとか、そういう、抵抗するすべもなく、損なわれていったものを取り返すことが、僕の原動力の一つだったと、今ならわかります。それは僕の性分であって、いつも損得の計算をしている人とか、やたら勝ち負けにこだわる人とか、美しいものを見て、すぐに目がキラキラしだす人とか、そういう性分の人たちより偉いわけではありません。ただ、この湖の前に立つと、自分自身の抑えようのない力を持って、広い世界へ、半ば呑み込まれるように進んで行った感覚が思い返されるのです。

 この堤防の下にあったツリガネニンジンが、花を咲かす前に刈られてしまい、がっかりしたことがありました。数か月して入ってみると、刈られた後に伸びた茎に、小さな花がたくさん咲いていた。その時、釣り鐘のような花すべてから、トーーーーンと音がしたように感じました。「ああ、それほどに僕はこの花に、自然の中で生きるものに焦がれるのか!?」と、驚いたのです。

 僕はこの湖に通いながら、少しずつ自分について確認し、外の世界について確認していったのです。

 今日の湖は、曇り空を写した濃い青で、やがて森を写して緑を帯びました。そこに濃いピンクの夕陽が差し込み、溶け合うように、分け合うように変化しながら、夜の深さへと暮れ落ちました。初めて見る色が、まだ見ぬ世界があるのだと、思わせるような洛陽でした。

 何度来ても、いくつになっても僕を拒まず迎え入れ、一番大切なことは何か? と、静かに問いかけてくる。そんな風景が身近にあることが、とても幸せに思います。

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June, 2022

june05 june06

モンキチョウ交尾拒否

 

 大好きな人と結ばれ、子どもを育て上げ、人生のあらゆることで協力し、最後まで添い遂げられたら幸せですね。結婚式ではそういうことを神様に誓ったりするわけですが、誓いを成就できる人は、どのくらいいるのでしょうか?

 多くの昆虫は、成虫になってから死ぬまでがとても短く、愛の成就を誓うまでもなく、ただパッションに従いまい進するしかありません。そしてそこにはメスをめぐる命がけの戦いもあり、策略も、略奪も殺戮も、命の力が試されるあらゆるものがある。

 その日、僕はうちから50kmほど離れた埼玉県内の田園地帯で遊んでいました。高速を使えば1時間ほどで行ける場所です。広い河川敷の草原で、モンキチョウが飛んでいました。黄色いのがオス、白いのがメス、二頭の蝶は水平に、あるいは突然進路を変え、くるくる回りながら追いかけあい、小さな竜巻のように、空へ高く高く飛んでいきます。

 草の上へ降りたメスを見ると、お尻を上へ上げています。一見オスを誘っているように見えますが、これは「私はもう交尾を済ませています。あなたと結ばれることはできません。」という合図で、この姿勢を取られればオスはもう何もできないのです。

 モンシロチョウの場合は、メスがこの姿勢を取れば、オスはすっと身を引きますが、モンキチョウは何かフェロモンでも出しているのでしょうか、オスは執拗に追いかけ、メスもそれを受けて力いっぱい飛び、まるで熱烈な愛のダンスのように見えるのです。

 このダンスは、なにも得ることのできない、まったく無駄なことでしょうか? 無我夢中で踊るうちに、メスは自分の過去を忘れてしまい、自分のダンスに最後まで付いてきたオスと結ばれるのではないか? あるいはそんな奇跡が起きてしまう可能性を秘めた、進化の過程のダンスではないか? そんな想像もしながら、初夏の蝶を追いかけました。

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June, 2022

june03 june04

空虚になりすます

 

 少し前に、何気なく撮っていた蛾の写真を見ていて、あっ!と声を上げてしまいました。撮った時にはたぶん「きれいな蛾だな。見たことがないな。」くらいだったと思うのですが、あらためて写真を見て、この蛾が「空虚」になりすまそうとしていると気づいたのです。

 写真をよく見ていただければ分かると思います。この蛾はススキか何か、イネ科の植物の茂った中にいます。細長い葉が傾き、一部は枯れて重なり、いくつもの三角形ができています。三角形の中は深い闇だったりします。枯れた葉は色が抜け、にじんだような模様を見せています。これらの鋭角と、ぼやけと、闇の混在する世界を、この蛾は自らの全身で描いているのではないでしょうか?

 そんなにも複雑な世界を、見事にデザイン化しながらも、蛾は何も知らぬように、安心しきって、午睡を楽しんでいるようです。ただ静かにしていることが、誰にも見つからず安全と知っているのでしょう。実際、蛾は何かを思考するような脳は持ってはいません。それなのに、人間が考えに考え抜いても思いつかないようなデザインできるのはなぜしょうか?
 ダーウィンの進化論が完全はないことを、もっとも分かりやすく証明できるのは、蛾をはじめ、多くの生きもの行う「擬態=なりすまし」ではないでしょうか?何かになりすまして、身を隠せるようになるために、少しずつ体を変化させたとすれば、中途半端に似ている時に生きていけません。その変身計画はそこで終わるでしょう。とすれば、擬態はある日突然、かなりの完成度で実現されたと考えられないでしょうか?
 蛾の中には様々な形態と色彩のデータがあり、ある日それを取り出したのか!? ではそのデータはいつ、どうやって作成、保存されたのか? たった1グラムの脳もないこの虫の、どこにそのデータはあるのでしょう?

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